諏訪の風景

諏訪の風景

赤彦と岡麓

親戚を尋ねて、一年のうちに数回は北アルプスを望む風光明媚な北安曇郡池田町を訪れる。池田町は町のホームページに町と島木赤彦、岡麓とのかかわりを載せており、それを町おこしの材料の一つとしているようである。
 赤彦の初任地であった会染小学校の校舎を見たり、そのすぐ近くにある岡麓終焉の家や両者の歌碑などを見ていると、池田町を舞台にして二人の交流があったのではないかという錯覚に陥ってしまう。
赤彦と麓はその生涯の中でそれぞれに池田町と深い関わりを持っている。赤彦は明治三十一年長野尋常師範学校を卒業したのち、北安曇郡会染村(現在の池田町会染)の小学校教師として赴任し、その公の生涯を開始した。池田での赤彦は熱血教師だった。生徒経歴簿を作成し、熱心に生徒指導をした逸話や教え子を師範の入学試験を受けさせるため長野までの十里の道を同道した雪の番場峠越えの逸話などが残っている。三年後、茅野の玉川小学校へ移るまで、短い期間ではあったが、「うるはしき池田の里に三年すみて只一朝に別れきにけり」と詠み、池田が教育者として思い出の地になったことを物語っている。
 一方、麓は昭和二十年五月、戦災の東京を逃れて会染村内鎌(ないがま)に家族とともに疎開し、足掛け七年を住み、歌を詠み続け、そこが終焉の地となったという関わりである。
 従って両者の池田町とのかかわりは、四十五年というタイムラグがあり、この地を舞台としての二人の交流はなかった。しかし両者にとって、この町が生涯忘れ得ない思い出の地になったことは間違いない。
 麓が香取秀真らと連れ立って近代短歌の祖といわれる正岡子規の門をくぐったのは明治三十二年であった。それらが切っ掛けとなりその翌年、子規が根岸短歌会を起すが、その後に入ってきたのが伊藤左千夫や長塚節たちであった。麓は、子規没後、左千夫の起した「馬酔木」に一時は参加したものの、作歌を離れてしまった。しかし中村憲吉と出会ったことにより「アララギ」の幹部である赤彦らに紹介されて入会となった経過がある。
 麓は地方出身者の多い「アララギ」の中では生粋の都会人として異色の存在であった。赤彦らは麓を篤く遇したことによって麓は居場所を見出し、歌人としての生涯を全うすることができたと思われる。赤彦との出会いと厚遇がなければ歌人麓はなかったといってもよいであろう。
 それでは赤彦が麓を快く「アララギ」へ受け入れたのは何故だろうか。三つほど理由があったのではないか。
 一つは、麓の穏やかで円満な性格に赤彦が好感を持ったことであろう。二つ目は、麓が徳川幕府の御典医という由緒ある家系に生れ、赤彦にはない、洗練された都会人の雰囲気を持っており、本職の書道のほか、国学、漢学、絵画、骨董、芝居、寄席、果ては薬草の知識に至るまで幅広い趣味と素養を身に付けていたことに心を惹かれたからではないかと思う。三つ目が一番大きな理由であるが、それは、先に書いたように麓が直接、子規に接し、赤彦が望んでも得られなかった直々の薫陶を受けている第一世代の歌人だったからである。それは麓の歌に対する赤彦の評価というようなものではなく、赤彦との立場の違いとして認識したのではなかろうか。
ここに、岡麓を迎えた「アララギ」の赤彦たちが麓をどのように遇したかについて、白秋に同調して「アララギ」を離れた釈迢空が「アララギ岡麓追悼号」に書いている文を引用してみたい。「これは一つは、アララギ同人の傳統を重んじる美徳から、新規出戻りの岡さんの歌を巻頭にすゑて最後まで變ることがなかつたあの正しい行儀が、岡さんにぢれつたんちづむに止まつてはならないと言ふ腹をきめさせたのでせう。それには、若い第二代とも言ふべきアララギ同人と竝んで、気遅れのしない作品を生む必要がありました。」と書いている。赤彦らが麓を尊敬していた様子が伝わってくる。また、あるとき赤彦が麓のことを迢空にこう言ったと書いている。「久保田さんのある時言った、愛情を込めた、輝いた微笑の一言を忘れません。『やつやつてるよ』この『やつ』は決して軽蔑でもなく、同輩に対する缺禮でもない。尊敬する先輩が自分たちと同じ心でゐる・・さう言ふ表現を持つ『やつ』でした。」(同追悼号)赤彦らしい荒っぽい言葉であるが、先輩を敬う律儀さが伝わってくる。事実、「アララギ」の歌人たちはみな岡先生と言って敬っていたようである。
 これに対して麓の方も赤彦に対する親密さを増していった。「アララギ」の赤彦追悼号には赤彦への気持ちをこう書いている。「私が歌を持参して(赤彦を)いろは館へおたづねしてからは、歳月を重ぬるにしたがって親密を加へて行つた。作歌の評をして頂いたのにも、徐々に教へて倦まず、質を見て説くの法あって、もともと教育の修練を積まれた故人は、歌道のうへに、得がたき師友であった。」こうして麓は赤彦を友として交わり、師とも仰ぐという気持ちで接するようになった。大正十年、斉藤茂吉が欧州の研修に行く際、みなで横浜港に見送った時の赤彦について、麓は「船がしづかに陸から離れてだんだん遠くなるのを一心に見おくる赤彦氏の両眼には涙がたまつていた。」(アララギ赤彦追悼号)と書いている。赤彦の情感溢れる姿を麓は見逃さなかった。
その赤彦の友を思い遣る気持は、麓の大きな危機のときに麓の家族の助けとなった。大正十二年の関東大震災のとき、赤彦は講演先の信州から急いで東京へ引き返し、大宮から徒歩で、アララギ事務所へ避難をしていた麓たちのもとへ食糧を届けてくれたのだった。
また赤彦の死後、二十年も後の第二次世界大戦の東京空襲の際、前述のように麓は、信州の「アララギ」会員を頼って池田町へ疎開した。戦後の動乱期であったので麓の疎開先での生活は大変苦しいものであった。しかし、かつて赤彦が「信州ヒムロ」を率いて東京の「アララギ」に合併したその手蔓が生きていて、麓を池田へ呼び寄せたことを思うと感慨深いものがある。
麓は池田での最晩年、妻はる、娘愛子を亡くし悲しみの連続であったが、池田での歌の一つ「山の端に朝わきあがる雲見れば夏は信濃に住むべかりけり」(雪間草)などを読むと信州人である私は何かほっとして嬉しくなる。一方の池田町を詠んだ赤彦の歌「此の町の家ひくくして道廣し裏の山々あらはにし見ゆ」という歌碑にもなっているこの歌の情景は、いまなおこの街道沿いの町の雰囲気として続いていることを見るとこれまた感慨深いものがある。


(島木赤彦研究会会報第56号・平成23年10月20日)

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