諏訪の風景

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短歌と生涯学習


私は高校時代、それなりに頑張って勉強をしたつもりであるが、個々の学びとなると、その意味や目的が分からないまま学んでいたという感じである。
しかし、長年の職場を退職後、短歌と英会話を始めることになって、高校時代の勉強が生きて来ることになったのは、皮肉というか、お陰様というか、まんざらでもないと思えるようになったこの頃である。
いま現代短歌では、文語、旧仮名から口語、新仮名まで幅広い言葉が使われている。しかし年配層を中心に文語、旧仮名による作歌が隠然とした勢力をもっているのは事実である。戦後、ここまで来れば、正式な古文を書ける人など先ずいない。実際のところ、旧仮名を使っている人々も、古文らしきものを使って短歌を作っているということになろうか。
私も短歌を始めるに当って、高校のときの古文の教科書を探し出した。ようやく見つかった。捨てなくて良かった。短歌で、一番分かりにくくて、間違いやすいのが、助動詞である。一般の参考書は、助動詞は、意味別に「完了・過去・推量・受身・尊敬・可能・・」と整理説明されているが、我々の教えられた高校の教科書は、動詞への接続順に整理されており、例えば未然形への接続は「る・らる・す・さす・しむ・・」となっている。実は、この接続順に整理されていることが、短歌づくりには大変重宝なのである。私もこれらの順序なら高校時代に諳んじているので、すぐに頭の中から取り出せる。こんな訳で、私の短歌の仲間が苦手な古文法を私は大好きということになってしまった。受験勉強のトレーニングがこんなところで生きてくるとは思わなかった。
いま、私は東京の短歌結社と別の諏訪の短歌結社に所属しながら短歌を作っている。東京の結社では、ここ四年間、毎月、同人の作った歌を批評する、いわゆる歌評(かひょう)というのを書かされている。諏訪人の理屈っぽさを見込まれてのことか、少し古語が分かるからということなのか、気を使って疲れる仕事ではあるが、今は、続けられるだけやるしかないという気持で頑張っている。
今の世の中、俳句人口の方が短歌人口より断然多い。俳句は取っ付きやすいということからのようだが、どっこい、俳句は大変むずかしい。一方の短歌は、小難しい文語で短歌を作らなければならないというイメージがいまだにあるせいか、なかなか普及しない。ケイタイ短歌など若者の自由な発想による口語短歌、大いに結構である。是非、短歌人口が増えてほしいと願っているところである。
 さて、ついでの話になってしまって、申し訳ないが、諏訪清陵高校出身者には、多くの歌人がいる。下諏訪出身で土屋文明の指導を受けながら、長く「アララギ」の発行に携わった五味保義、上諏訪出身で、与謝野鉄幹の「明星」同人となり、翻訳家でもあった茅野嘯々(清陵祭の歌の作者)、上諏訪出身で歌会始の召人にもなった武川忠一などである。この三人の人物像をWikipediaに書く機会があった。ご参考いただければ幸いである。

(諏訪清陵高等学校古稀記念論集・平成24年6月)

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