諏訪の風景

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冬の星と与謝野晶子

「星と短歌」ですぐ思い起こすのは与謝野鉄幹と晶子のことである。鉄幹は自らを地上では束縛されない「星の子」であると考える過剰なプライドを持っていた。このことは発刊した雑誌が「明星」と名付けられたことからも分る。一方で、その鉄幹の強い個性が晶子を虜にしたと言えよう。
 晶子にはこの「明星」の主宰者夫人という意識も手伝って、一般的には歌材にはなりにくい「星」を詠んだ歌が多くあると思われる。短歌革新と浪漫主義短歌の確立を目指して夫鉄幹とともに歌作りの道に邁進したのであった。
 
・新星(にいぼし)のその世ながらの君もあるにわが鬢ぐきよなど色あせし

 晶子の「星の子」である夫鉄幹とともに生きているという意識にも、年齢を重ね、体力が衰え、病を得たとき、自らを流れ星のようなはかない存在であると認めざるを得ない時が訪れた。大正13年5月、歌文集「流星の道」が発刊されたときのことである。
 晶子はこの集の自序の中で「私は去年の大災(関東大震災)に死を免れ、また此の春病気からも回復しましたが、以前から短命の予感される私は、かう云う風に歌ふことがもう幾年も無い気がします。『流星の道』はやがて小さな個性のはかない記念として永遠の幽闇に消えてしまうでせう。」と書いている。また巻頭の歌として
 
・御空より半はつづく明きみち半はくらき流星のみち
と歌い、当時晶子は46歳、実際は亡くなるまであと17年も生きるのであるが、この歌文集の発刊により自分の衰えと晩年に入ったことを意識したのは間違いないと思われる。この集には、

・劫初より地に降りたる流星のすべてを集め川の渦巻く

・大空に新湯の町の灯かげをば覗く星あり旅人のごと
 
という歌があるが、一首目で晶子は生まれては死んでゆくこの世の全ての人々のことを流星に譬え、二首目では旅人を星に譬えている。    
 さて冬の星のことである。晶子は夫や友人とともに歌会への招きや、支援者からの招待などを受け全国津々浦々へ長期、短期の旅行に出かけている。私がいま住んでいる長野県諏訪地方にもやって来た。そのときの「冬の星」の歌を紹介したい。

・冬の夜に流るる星の白き尾はすこし久しく光りたるかな(歌集「心の遠景」)

・すでにして障子あくれば星ありぬ山の蔭なる下諏訪の空(歌集「心の遠景」大正14年冬)
 
鉄幹と晶子の生涯は星の子、明けの明星から始まって、最後は冬の夜に尾を引く流れ星へと意識の中で変遷をしていくのであった。  


(ナイル短歌工房誌・平成20年3月号)

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