諏訪の風景

諏訪の風景

夕焼空の歌とその改作 ①

夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖の静けさ(切火)

これは赤彦の第二歌集「切火」の中の大項目「山の國(大正2年)」、小項目「諏訪湖」の冒頭の歌であり、諏訪市の湖畔にある歌碑公園にも歌碑が建てられている有名な歌である。この歌は、のちに大正14年、改造社より短歌叢書の発刊が企画された際、赤彦の歌集も「十年」というタイトルを付けて出版されることとなり、その中にも取上げられた。この「十年」は自選歌集であり、発刊に当たって、赤彦は「切火」の263首の中から、わずか21首を自選しなければならないこととなった。また、叢書全体では大正2年後半から大正13年初めに至るまでの、10年間の1623首をたったの352首に切り詰めなければならなかった。赤彦は「十年」の巻末小記の中で、その選歌作業は、「少々難事」であったと書いている。また、「あはれ」であった。とも書いている。選歌の対象となったのは、歌集名で言うと、「切火」、「氷魚」、「太虚集」の三巻であった。その自選歌集「十年」の冒頭に赤彦自らが選び改作をして載せたのが次の歌である。

まかがやく夕焼け空の下にして凍らむとする湖の静けさ(自選歌集「十年」)

これには、注書があり、「原作一、二句は『夕焼空焦げきはまれる』」であると書かれている。すなわち、「夕焼空焦げきはまれる」を「まかがやく夕焼け空の」に直したというのである。実は、この一、二句のほかに、ご覧いただくように、「氷らん」が「凍らむ」に直っている。また、「切火」のときは歌中の漢字には一切ルビが振られていなかったが、「十年」では、すべての漢字にルビが振られている。これは、この歌のすべてについて、見直しと採録(再録)のための推敲が行われたということである。
 改造社叢書には、赤彦の他に斎藤茂吉、与謝野晶子、北原白秋などの自選歌集なども発刊された。それぞれ数多い作品の中から、自ら選歌したわけであるが、与謝野晶子は採録歌集「人間往来」の巻末に、「之を選ぶに當って、すべて原作のままを採り、少しも改削を加へぬことにしました。今の気持ちで改めては原作の心を失ひ、その時の實感に遠ざかるであらうことを恐れたのです。すべて推敲はその制作の時から餘り隔たらない間にするので無いと不自然な結果になると思ひます。」と言っている。これは晶子の信念を言っていることであって、赤彦に敷衍することではないが、赤彦が敢えて改作を行ったことは、赤彦の言葉へのこだわりと真剣な態度によるものと思われる。
それでは、「切火」のこの歌に赤彦はどんな思いを込めたのであろうか。この歌を詠んだ当日は晴天であり、空は青かったに違いない。それが一転して夕焼け空のくれないとなり、焔が燃えて焦げるような色になったのであろう。さらに焦げたというだけではなく、焦げきわまるというのだから、これ以上の焼け方はない。そのあと夕焼けは瞬時に収まったのであろう。収まった様を見たからこそ、直前の輝きが極まったと言い得たと思われる。この上句に対して下句では氷りつく湖という波一つ立っていない湖の静寂さを詠い、二つの雄大な自然を対比させている。この上句、下句の照応によってこの歌は、力強さと繊細さを合わせ持ち、同時に鳥瞰的な絵画性を持った歌となっている。
赤彦が住んでいたのは、下諏訪町髙木の高台である。家の裏には東側に高い山が続いているので、早い刻から朝日が昇るのは見えにくい。しかし、夕日が諏訪湖を越えて西の山へ沈んでいくのは十分に堪能することができる場所である。
「切火」の中の「山の國(大正2年)」には、全部で85首が収められているが、「夕焼」「夕日」「夕照」「夕光」「夕づく」など「夕」が付く言葉を含む歌は17首もある。これに対して「日の明るき女の頬に青草のにほへる色はかなしかりしか」などの「日」という言葉はかろうじてこの歌に出てくるくらいである。これは上記のように赤彦の居所の地理的条件からして当然であるが、同時に心の中に「夕」に共感する暗い思いを持っていたのではないかと思われる。
このほか、この「山の國」85首の中には、「きはまれる」が他に一首出てくる。それは「闇深く入りきはまれり今生に口外をせぬこの心かな」である。まことに思い詰めた自分の心の中にある暗い闇を詠んだ歌である。この歌は、巷間言われている広丘小学校時代の出来事に対する思いを詠んでいるのかも知れない。詠んでいる本人しか分からない歌ではあるが、この「きはまる」は「焦げきはまれる」に符合する何かがあるように思えてならない。
今回、私がこの一文を書いてみようと思い立ったのは、私の手許にあるこの歌を書いた赤彦の掛け軸を見てのことである。この掛け軸には、「夕焼空」が「夕焼けぞら」となっている。また「きはまれる」が「極まれる」となっている。思うに、これは赤彦が揮毫を頼まれたとき、「夕焼空焦げ」と漢字が連続することを良しとせず平仮名を使ったのであろう。また逆に、「極まれる」はバランス上、漢字とした方が良いと考えたのであろう。これらを考えてみると、揮毫を頼まれるようなときは、元歌の文字を見ながら書くのではなく頭の中に憶えている自分の歌を思い付くまま自由に書いたのではないかと推測するものである。


(島木赤彦研究会会報平成25年)

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