諏訪の風景

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3 枕詞を使った歌の事例

それでは、大きい三番目の項目、に入ります。枕詞を使った歌の事例であります。最も一般的な枕詞を選んでみました。

あからひく」(赤ら引く)は、日・月・子・君・朝・膚(はだ)などにかかる。明るく光る、赤みを帯びる意味から来ています。

・ぬばたまのこの夜な明けそあからひく朝行く君を待たば苦しも(万葉集・作者不詳)
この歌は、「あからひく」と「ぬばたまの」という枕詞を二つ使っているところが特徴です。な~連用形~そ、で禁止。夜よ明けてくれるな。待たばは未然形なので、もし君を待ったとしたら、苦しいだろう。という意味になります。

あかねさす」(茜さす)は、日・光・昼・照る・月・君・紫・などにかかる。茜色に照り映えるの意。

茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる(万葉集・額田王)
これは、万葉集の一番初期の歌です。紫草という草が染料になるそうですが、赤っぽいところがあるので、「あかねさす」というようです。額田王は、天武天皇の寵愛を受けた歌人であります。また、標野は占領するの占、禁止の禁の字が当てはまる、ということで、入ってはいけない御料地の野のことです。「紫草の生えている御料地を、あちこちへ行きながら、そんなことをされるなんて、野の番人が見るではありませんか。あなたが私の方へ袖を振っておられるのを」という意味になります。

あかねさす日の入りがたの百日紅(さるすべり)くれなゐ深く萎(しおれ)れたり見ゆ(島木赤彦・第三歌集氷魚)
意味は、読んだとおりの歌です。

あしひきの」(足引の/足曳きの)は、山・峰(を)・尾の上(をのへ)・転じて岩・木(こ)・嵐・野などにかかる。語義未詳。

あしひきの山のしづくに妹待つと我たちぬれぬ山のしづくに(万葉集・大津皇子の石川郎女(いらつめ)に贈り給へる歌)
足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二
 
これは大津皇子の石川郎女(いらつめ)に対する相聞歌です。ここに万葉集の原文を書いてみました。この歌について、赤彦が万葉集短歌輪講の中で書いていることを読んでみます。「僕は今まで「「わが立ちぬれぬ」というところを、「わが立ちぬれし」、と読んでおったし、いまでもそう読みたい気がする。「が」という「てにをは」が入り、「し」という連帯形の助動詞が入って、余計に一首の心持が流動するように思われる。猶、序(ついでに)に言えば、同じ句を畳んで用いている例も万葉集中に散見するものは、大抵が自然であって、この歌も同じ句を畳んで用いたために、却って一首の声調を助けてゐるようである。」と書いてあります。赤彦としては、とても好意的な批評であると思いました。

吾(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを(万葉集・石川郎女
吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎

石川の郎女が、前出の大津の皇子に対してお返しをした歌ですね。「私を待ってあなたが濡れたという山の滴に私はなれるものならなりたかったのに」という意味です。「まし」は反実仮想の助動詞・事実に反することを仮に想像したということですね。「濡れけむ」の「けむ」は「けむ・けむ・けめ」の過去の婉曲あるいは、推量の助動詞で、「あなたが濡れたという、その滴に」ということになります。

赤彦は、郎女の返し歌に、「濡れたという」という意味の「けむ」があるので、前の大津皇子の歌を「濡れし」と過去形に読みたいのだというように思います。しかし、大津の皇子が、この歌を詠んでいる時点では、現在形あるいは、完了形であり、いま、自分はこうして濡れているよ。濡れてしまったよ。ということだと思います。万葉集の中にはこの「所」プラス「動詞」が何か所も出てきますが、「所」は、関係代名詞WHICHだったり、人であればWHOというような意味でしょうが、ほとんどが現在形で解釈されています。

実はこの歌の二つ前の歌に大津の皇子の姉さん、大伯皇女(おおくのひめみこ)という人の歌が載っていまして、ほとんど同じ言葉があるのですが、その歌には「ぬれし」と言って、「し」のところへ「之」という字が書いてあります。これならまさに過去ということでまちがいないと思います。

足曳の山川の瀬の鳴るなべに弓月が嶽に雲立ちわたる(万葉集・柿本人麻呂)
赤彦は、これについて、こう言っています。「この歌の声調が如何にも人麻呂の高邁な性格に合しているといふ感がある。人麻呂の作中最も傑出したものの一つであろう。」とこれもほめております。

足引の山本君は処しらず歌まはしおきぬ岡君のもとへ(正岡子規・明治三二年、秀真へ)
 これは、正岡子規が、香取秀真(かとりほづま)へ葉書に書いて送った短歌です。香取秀真は、根岸短歌会のメンバーで、歌人で彫金作家、戦後、美術の工芸家として初の文化勲章受章した人です。ある研究者によると、「子規は、日常的な要件(何日に家へ来いとか、歌を作って送ってよこせ、とかいったこと)を短歌のかたちにして葉書に書き、門人たちにしばしば送ったのである。」(大島史洋『近代短歌の鑑賞七七』)ということで、そういった短歌は「はがき歌」というそうです。このはがき歌は、山本君の居所が分からないので、岡麓君の所へ歌を回しておいたよ、という内容です。山本君は誰か、よく分かりません。岡君は岡麓のことです。

うつせみの」(空蝉の)は、世・身・命・人・妹・などにかかる。空蝉という表記からむなしいという意味が生じたもの。

うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲(おも)ひつるかも(万葉集・大伴家持)
これは、この世は、はかないものと知ってはいますが、秋風が寒いので、妻のことを思ひつるかも、という歌です。

うつせみの命を愛(を)しみ地響きて湯いづる山にわれは来にけり(斎藤茂吉・つゆじも)
これは、大正六年に長崎医学専門学校教授で赴任した斎藤茂吉が、大正八年に、流行性感冒を病み、喀血して入院。そして、雲仙へ転地療養をしていたときに、島木赤彦が茂吉を励ますべく長崎に見舞いに行き、一緒に、雲仙温泉の山の湯へ行ったときの歌です。うつせみの命を愛(を)しみというところに、38歳の茂吉が死にたくない、生きたいという思いが感じられる歌であると思います。

斎藤茂吉の全歌集の中には、「うつせみ」は84、「うつしみ」は47、「うつそみ」を使った歌は18、合計149首のうつせみが使われているそうです。この数は、歌人の中では特別に多いと指摘している人がいます。茂吉がこの枕詞を愛用した理由は、茂吉の強烈な生命意識に基づくと言われています。それと比較して土屋文明は、「うつせみの」が1首しかないそうであります。

たまきはる」(魂きはる)は、命・内・世・吾・うつつ・などにかかる。語義未詳、「魂極る」の意か。万葉集の中には、音読み「多麻伎波流」など6首、訓読み「霊剋」など13首、計19首

ただに逢ひて見てばのみこそたまきはる命に向かふあが恋やまめ (万葉集・中臣郎女)(なかおみの・いらつめ)
 あなたに直にお逢いできた時、その時こそ命懸けの私の恋はやむのでしょう。

・あかあかと一本の道通りたりたまきはる我が命なりけり(斎藤茂吉・あらたま)
目の前に、赤々と一本の道が通っている。それは(歌と言うものに魂を込めて来た私の)命の道だ。というくらいの解釈でしょうか。
今年は、斎藤茂吉、生誕130年です。毎日新聞に歌人の三枝昂之さんが一文を書いていました。その中で、斎藤茂吉の生涯を通じてのこの一首というものを選ぶとすれば、この歌、「赤々と一本の道」を選びたいと書いていました。神奈川近代文学館で、茂吉生誕130年記念展が四、五、六月と開かれていたようです。

たらちねの」(足乳根の・垂乳根の)は、母・親・身重・などにかかる。「たらちね」は「足ら霊()根」で生命の根源としての母を誉め讃える詞。「垂乳根」は当て字。霊(ち)=自然物の威力・霊力を表す語。「いかずち(雷)」「おろち(蛇)」など。

・たらちねの母が飼ふ蚕()のまよごもりいふせくもあるか妹に逢はずて(万葉集・作者不詳)
母が飼っている、蚕が繭にこもっているように、もやもやとした気持ちです。妹に会えないので。

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり(斎藤茂吉・赤光) 
 この歌は、のどの赤さが生命を象徴している。また、釈迦が死ぬ時に、動物に見守られたのと重ね合わせて、燕のことを歌っている、といわれている。

ぬばたまの」「むばたまの」「うばたまの」(射干玉の・烏羽玉の)は、黒・夜・夕・月・闇・宵・髪・夢などにかかる。ぬばたま(ヒオウギの種子)が黒いところから。

・ぬばたまの夜のふけゆけば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く(万葉集・山部赤人)
この歌は、島木赤彦がべた褒めの歌でして、いわく「山部赤人の沈潜せる個性から、澄み入った寂寥相に接し
得る感がある。」と書いてあります。久木という木は、梓の木に似ているようであります。赤彦は、梓の木は長野市、後町小学校の校庭にあるのを一度見たことがある。と書いてあります。長野県ではこの木を「キササゲ」と呼んでいるそうです。

・烏羽玉(うばたま)の夜(よ)のみそかごと悲しむと密かに蟇(ひき)も啼けるならじか(北原白秋・桐の花)  
この烏羽玉(うばたま)は、カラスの羽の黒さを言っている。みそかごとは男女の密通。蟇はヒキガエルの別称。この作者にはこの種の歌が多いですね。

・あぢさゐの藍(あゐ)のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼(佐藤佐太郎・帰潮)
佐藤佐太郎は、斎藤茂吉の弟子です。二つの枕詞が入っています。花ありぬ、ときたので、ぬばたまの、と夜が先にきたのですね。

ひさかたの」(久方の・久堅の)は天(あま・あめ)・空・転じて「天空」に関係のある・月・日・昼・雨・雪・雲・霞・光などにかかる。久しい方向、場所の意。「久方振り」などと言いますね。

・ひさかたの雨の降る日をただ独り山辺に居をればいぶせかりけり(万葉集・大伴家持)
赤彦はこの歌を、「短歌輪講」の中で、「一見、頼りなきまでに、澄み入ったところがいいのである。そこが凡歌(平凡な歌)と別れるところである。」とほめています。

・ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(古今集・紀友則)
これは、百人一首にも入っている有名な歌ですが、よく間違って、「しづこころなく」と読みますが、「しづごころ」が正しくて、しずかな平静な心のことです。
・久方のアメリカ人(びと)のはじめにしベースボールは見れど飽かぬも(正岡子規・明治三一年)
 おおらかで自由自在な歌であると思います。しかし、この歌は決して枕詞を馬鹿にしているわけではない。子規は実験的に、色々な枕詞を使っているわけです。何とか新しい観点で、歌を作りたいという思いが伝わってきます。

これは、余談ですが、二年ほどまえNHKのスペシャルドラマ・「坂の上の雲」の前半で、秋山真之、好古兄弟と正岡子規と妹、律が子規庵で交流している場面がありました。とても良いドラマだったと思います。そのとき、真之は、子規を「のぼさん」「のぼさん」と呼んでいました。それに関して、ベースボールを翻訳して「野球」という日本語を作ったのは、正岡子規だと言われています。子規は、「野球」は「野だま」「のボール」だと、自分の名前「升(のぼる)」と同じだと言っていたそうです。さらに、走者、打者、四球、直球などを日本語に訳したのは、子規であるということで、その功績が認められて、平成14年に、子規は野球殿堂入りを果たしています。これは全くの余談です。

・久方の天(あめ)ぬば玉の雲間より三つのみ声を啼(な)く山の鳥(太田水穂・流鶯)
久方とぬば玉、二つの枕詞を使った技巧的な歌、しかも三つの声を啼くというのは、ブッポウソウ、仏・法・僧というわけで、これまた技巧的な歌。

みこもかる」(水薦刈る)・「みすずかる」(水篶刈る)は、しなの(信濃)にかかる。信濃は水薦(水中のマコモ)が多い土地なので付けられた。

・みこもかる信濃の真弓我が引かば貴人(うまひと)さびて否と言はむかも(万葉集・久米禅師)
信濃の檀(まゆみ)で作った弓の弦(つる)を引くように、私があなたの袖(そで)を引いたなら、あなたは貴人(きじん)ぶって、イヤだとおっしゃるでしょうか

・みすずかる信濃のはての群山の嶺吹き渡るみなつきの風(会津八一・豊科町、山田温泉にて)
実は、万葉集には、「水薦苅」(みこもかる)とあるわけですが、それを賀茂真淵が「みすずかる」と誤読してしまって、「みすずかる」が定着してしまった、と言われています。また、信濃についてですが、なぜ長野県には更科・埴科・保科・明科・豊科・蓼科などとシナのついた地名が沢山あるのか。このシナと信濃の関係には二つの説がありまして、賀茂真淵はシナとは「坂」の古語で信濃には、坂が多いからだとし、本居宣長は信濃にはシナの木が多い土地だからだと言っています。科の木は、かなり大きな木で、いま長野市の市木になっています。長野県歴史館館長の市川健夫さんは『信州学大全』でシナの木説を支持しています。

むらきもの」(村肝の)は、こころ(心)にかかる。「むらきも」は内臓の意。心は内臓のはたらきによるものと考えられていた。

・むらぎもの心しづまりて聞くものか、われの子どもの息終るおとを(島木赤彦・氷魚・逝く子)
この歌の詞書に「(大正6年)10月長男政彦信濃より来る。11月上旬下谷神尾病院に入り、鼻を治療す。・・病むこと10日。12月18日午前零時半小石川病院に逝く。」と書かれています。赤彦は自分が代わってやりたい、というくらいの気持ちでいたと思いますが、このような状況の中でよく冷静に歌を詠んだと思います。

・むらぎもの心おもいっきり投げん、きっと天気に、なるあすのため(俵万智・サラダ記念日)
 俵万智は、口語によって詠む短歌へ道を開いた人です。こんな人も枕詞を使っているということで載せてみました。

以上でこの講演を終りたいと思います。枕詞についてのお話か、短歌の鑑賞の時間なのか、よくわからないようなことになりましたが、お赦しをいただきたいと思います。今日はご清聴を感謝いたします。ありがとうございました。


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