諏訪の風景

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夕焼空の歌とその改作 ②

夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖の静けさ(切火)

まかがやく夕焼け空の下にして凍らむとする湖の静けさ(自選歌集「十年」)

前回に続き、この二首を鑑賞し、その関連性を見てみたい。
「切火」に発表された一首目の「夕焼け空」について、上田三四二氏は「第二句のつよい主観句によって強烈な色彩と息詰まるような静寂感が出ている。」(短歌シリーズ・人と作品・島木赤彦)と書いている。しかし「焦げきはまれる」が主観句であるというのには、賛成できない。勿論この句の中に様々な思いが内在しているものと思われるが、むしろ徹底した叙景の句であるというべきであろう。一方、結句の「静けさ」と詠むことの方が主観に近いものがあると思われる。
この「静けさ」について調べてみると、この歌の載っている「切火」の「山の國」85首の中には、「静まる」「しづもる」「静かに」「沈む」など、12首が出てくる。この一連の歌で赤彦は数多い様々な静けさを詠むことによって、「焦げきはまれる」ような心の中に「静けさ」を回復したかったのであろうと思われる。
また、短歌批評の立場から言えば、私は第三句の「下にして」が説明的な字句であって流れの悪い言葉であると思っている。しかし、誰もそれを指摘し、触れないのは、この「下にして」という一語によって上句と下句が鮮やかに対比されており、批判する思いが吹き飛んでしまうからに相違ない。
もうひとつ、この歌もそうであるが、赤彦の歌には字余りの歌がかなりある。初句「夕焼け空」が字余りである。歌のリズムは途切れるが、一首の状況説明とイメージ喚起のためにはこの一字余りが成功している。この歌の結句も字余りだと言う人がいて驚くが、地元に住む者たちは「湖」を当然のように「うみ」と読む。我々は、歌を読むとき、まず「うみ」と読み、字数が合わないときに、初めて「みずうみ」と読む習慣を持っている。
 さて、二首目に掲げた、大正14年の改造社版の「十年」による改作についてであるが、「まかがやく夕焼け空」という表現は、赤彦が「夕焼空焦げきはまれる」というあまりに強烈な表現を嫌って、穏当な表現に変えたという見方が多い。そして、この改作によって、大胆で、色彩感覚豊かな元歌が単に形の整った力のない歌に戻ってしまったと、残念がる声を多く聞く。
 しかし、この「まかがやく」にも赤彦独自の工夫があると思われる。「ま」は接頭語であり、形容詞などの頭につき、真実性や完全性を表すと同時に、言葉の語調を整える便利な用法である。しかし、「ま」は動詞には付きにくい感じがする。動詞に付く場合には、むしろ、「目(ま)」という意味を伴うのではないかと考えられる。斎藤茂吉の歌には、特に「あらたま」の中にはこれに似た「まかがよう」と言う表現がいくつも出てくる。「まかがよう光」「・・真夏」「・・昼」、などであるが、ほとんど輝いている物に冠する枕詞のように使われている。
また「ま輝ふ」にはきらきら光って揺れているイメージが付きまとう。しかし赤彦の「ま輝く」は、目の前にまばゆいほど光るという、この動詞本来の性質をはっきりと表した表現であると言える。したがって、巷間言われている、赤彦が、「切火」を著わした後、茂吉の「あらたま」(大正10年1月)が発刊されたことを受けて、「まかがやく」を思い付いたのではないかという人たちがいるが、そうではなく、「まかがやく」は「焦げきはまれる」からはトーンは落ちたとしても、赤彦独自のものだったのではないかと思われる。
 さて、様々な人たちが、この二つの「夕焼け空」について鑑賞と批評を書いているが、ほとんどの人たちが改作前の「焦げきはまれる」の方に心を引かれると言っている。大方は、そうであろう。勿論どちらの歌をとるかは、それぞれの鑑賞者に任されている。しかし、この改作から読者がどのような印象を持つかは別として、赤彦自身が絶えず、短歌の字句に気を遣い、よりよいものを求め続けていたことが証明されるものと考えている。


(島木赤彦研究会会報平成26年)

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