諏訪の風景

諏訪の風景

赤彦の歌、連作の推敲

*色づきて寂しくもあるか雪山の裾にかたむく落葉松林 (氷魚)

*色づきて寂しくもあるか火の山のすそに傾くからまつばやし(短冊)

この歌は赤彦第三歌集「氷魚」に載っている題名を落葉松という一連の歌、8首の中の1首である。初出には沓掛原との注書がしてあるので場所は今の中軽井沢近くであることが分かる。8首のうち3首には浅間山という固有名詞も入っている。山裾の落葉松が黄葉している晩秋の浅間山はすでに雪が降り積もり間もなく冬を迎えようとしている。そして作者本人は「枯芝の土にあらはれし石のあたま腰かけて居て日ぐれとなりぬ」(第6首)という情景の中にいる。
これらの歌は、「氷魚」には大正6年の作として載せられているが、実は、その基となるアララギ誌には、それより一年遅い大正7年5月号に初出として投稿されている。そうすると、前年に作った歌群れを歌誌に発表するまで一年間寝かせておいたことになる。そして大正9年「氷魚」発刊の際には、これら8首のうち4首、5箇所の字句に修正を施している。このように、絶えず歌の見直しをしていることの理由は何処にあるのだろう。私なりに考えてみるとき「氷魚」の巻末記に書かれている赤彦の述懐が参考になる。
そこには、「予は或事に遭遇し、その感銘を歌に現す場合に、可なり多くの時間を用ひることがある。或るものは一年以上を費したこともある。夫れを名譽とは思つてゐない。自分の技巧が自分の感銘を現すに足らないために同じものを何時までもつついて居らねばならぬのである。予の一聯作の歌の中には、或は事に引きつづいて成つたものもあり、或は事をずつと経過してから成つたものもある。経過してから成つたのは必しも経過してから作りはじめたのではない。時間を費すこと少くして出来あがることは、予と雖も希ふ所であるが、今は致し方がないのである。」とある。長々引用したが、要するに、見聞きしても、すぐ歌が出来るときと、完成までに可なりの時間や年月を要することもあるということである。
 通常結社誌に八首の連作を詠むときに、実作者としての私の経験から考えてみても、一首、一首を個性ある歌にしたいと思うと同時に、連作としての流れや調和を乱したくないという二つの思いが出てくる。そのことについて赤彦は、「歌道小見」の「連作」の中で「歌の價値は何所までも一首の上にあります。それが何首も相連つて綜合的に或る心持の現れるのは、偶然若くは自然の開展であって、豫定的若くは意圖的になさるべきものでありません。」と言っており、赤彦は原則的に、歌は一首として独立しているべきであるとの考え方を示している。しかし赤彦と言えども「一首独立」に主眼を置きながらも、連作としての全体のバランスを考えなければならない苦心がこれらの一連の歌の制作過程にあったものと思われる。
「歌道小見」の「表現の苦心」の中には、「自分の感動の本體と、歌に現れた所と、意味に於て調べに於て、微細所に入つてぴたりと相合するといふことは、中々むづかしいのでありまして、そこに、いつも表現上の苦心が要るのであります。」と歌の推敲についてその苦心を言っている。
さて、今回私がこの稿を起してみる切っ掛けとなったのは標記二首の二番目に掲げた短冊の歌に関してである。この短冊に詠まれた内容が連作八首を徹底して推敲した原因の一つとなったのではないかと想像をしているからである。この短冊の歌は、どこにも公表されていない。また制作の時期も分からない。もしかしてこれはアララギ誌に投稿するまでに習作として書いたものかも知れないし、あるいは、のちに誰かに揮毫を頼まれて書いたものかも知れない。しかしこのように一首だけを短冊に書くとなると、「氷魚」所載の歌ではそれが何処を詠んだものか分からない。そこで浅間山を詠んだ証しに「火の山」と入れることになったものであろう。
加えて作者からすれば、自分自身に赤彦という名を付けたほどに、赤に対して強いモティーフを持っているのだから浅間山を火の山と呼びたかったのであろう。落葉松林に囲まれた雪山とだけ詠むのでは寂しい、特にこの軽井沢、安中磯部温泉の地は赤彦にとって思い出の地でもある。何とかして、火の山という言葉を歌の中に入れられないかと時間を掛け、年数を掛け推敲をしたのではないだろうか。しかし、結果としては、この言葉が連作の中ではあまりに目立つがゆえに実際は入れることができなかった。これが私の想像である。違うかもしれないし、合っているかも知れない。こんな想像をしてみるのも読み手側の特権ではないだろうか。


島木赤彦研究会会報平成27年)

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