諏訪の風景

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赤彦と夕暮のはざまで

 私はナイル短歌工房のほか地元にあって島木赤彦を祖とするアララギ系の結社「あさかげ」にも籍を置いている。成り行きからこうなってしまったが、いまこれら作風の違う二つの結社に所属していることが、私の短歌人生にとって大いに益となっていることに感謝している。
 
 世に短歌論争は数多くあるが、夕暮の歌集「深林」に対する赤彦の批評と夕暮の反論は、その中の大きな一つであることが知られている。しかし一般的には、この赤彦の批評は概論的な批評であると思われているが、そうではなく、個々の短歌に対すること細かい批評がされているのである。大正5年12月号のアララギに載せられた「歌集『深林』の著者に呈す」を改めて読んでみると、例えば、「たへがたく悲しき心、眼つぶりつのみくだしたり卵黄ひとつ」を「初句に重大なる語句を用いていながら、結句は日常瑣末な常事で結んでいるのは、滑稽である。」と言っている。果たして批評のとおりであろうか。私にはこの夕暮の歌の心情がとてもよく分る。この歌をそのまま受け取ることができる。皆さんもそうであろうと思う。現代人の歌の感覚そのものである。以下赤彦は何首にも渡って様々な批評をしている。

 赤彦はアララギの中でも、極めてストイックな歌人であった。しかし前掲のような批評は、赤彦の持論である写生論から出たものではなく、夕暮の歌の中に赤彦の持たざる資質である感じたままを表現できる感覚、光や色彩に対する瑞々しい感覚を見出し、それに対する羨望の気持ちから、逆にこれほどまでに攻撃的に出たのではないかと思うのである。

 田舎暮らしの私が夕暮、進、秀雄と繋がるナイルの都会的センスの中にたじろぎながらも同化しようと努力しているいま、同郷である不器用な赤彦の心情が少しでも分るような気がするのである。


(ナイル短歌工房誌アンソロジー・平成22年4月)

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