諏訪の風景

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1 枕詞の定義と歴史

赤彦研究会長野県支部講演・諏訪教育会館・平成24年7月21日                                                                
今回は、このような機会をお与えいただき、ありがとうございます。今日は、タイトルが、タイトルですので、面白くないお話になりそうです。どうぞ、ご期待をしないように、お願いをいたします。それでは、資料をご覧いただきながら進めたいと思います。

 枕詞の定義
まず、「枕詞の定義と歴史」の中の枕詞の定義であります。

枕詞とは、和歌に見られる修辞法の一種で、特定の語の前に置いて語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉のことをいいます。序詞とともに「万葉集」の頃より用いられた技法です。この枕詞が用いられ始めた時期については、このあとで、詳しくご説明しますが、万葉集より以前の「古事記、日本書紀」の中にも枕詞が出てきているというお話をいたしたいと思います。枕詞が修飾する言葉、これを私は、枕詞の対象語と呼んでいますが、この対象語へのかかり方は慣習的、固定的なものであります。一定の枕詞が一定の語にかかるのを通例としますが、類似の語に拡大してかかる場合もあります。昔は、「冠辞」、「冠詞」、「諷詞」(ふうし)、「発語」(ほつご)などという呼び方もありましたが、現在では、「枕詞」という言い方にほとんど統一されています。以上が定義であります。島木赤彦は「万葉集批評」や「短歌輪講」の中では、枕詞と使ったり、「冠詞」という言葉の両方を使っていますが、赤彦が、これを、「かんじ」と読んだのか、「かんし」と読んだのか、私にはわかりません。

ついででありますが、枕詞に似たような言葉で序詞というのがあります。この説明を少しさせていただきたいと思います。これは、「てにをは」の助詞と区別するために、「じょし」と言わず、「序詞」(じょことば)という言い方を使っています。「序詞」は「枕詞」に似ていますが、枕詞のように「どの言葉にどの序詞がかかる」というような決まりがありません。どういう序詞をどの言葉に掛けるかは、歌の作者自身の工夫と知恵にかかっています。

序詞の例としてあげてみますと、有名な「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」があります。この歌は万葉集では、読み人知らず、拾遺和歌集などでは、柿本人麻呂作と言われている歌です。三句目の「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の」までが、「ながながし夜」を引き出す序詞になっています。序詞の長さは二句の場合もあり三句の場合もあり、極端な場合は、四句まで序詞という例もあります。この歌は、序詞のほかに初句に「足曳きの」という枕詞も同時に使っています。序詞を使った歌の解釈の方法は、何々のように何々だ。と訳すほか、「それではないが、それによく似て」というように、訳されます。この歌の場合ならば「山鳥の長く垂れ下がった長い長い尾、それではないが、それによく似て長い長い夜を一人で眠ることであろうかなあ」といった感じの解釈になります。

それから、この歌を、歌の作りから考えてみますと、まず詠み手が「あしひきの~」と詠み始めます。そうすると聴き手の方は、どんな山の歌が出てくるかを期待するわけですが、それが山でなくて、想像しなかった山鳥が出てきて、まず驚くわけですが、その鳥の尾が枝垂れるくらい長い尾っぽだと想像させて、長い長い夜、という言葉に聴き手をひっぱって行くという、大変に技巧的な歌であると思います。

枕詞の字数
さて、枕詞の字数でありますが、枕詞とは、通常五音の言葉であります。三音四音のものもありましたが五音に統一されるようになったわけです。

枕詞の歴史
それでは、枕詞はいつから使われたかという枕詞の歴史をみてみたいと思います。それは、枕詞は、和歌の手法の一つですので、とりもなおさず。和歌が何時から作られたかということと係わってきます。まず、和歌が作られ始めた、古代については、和歌に関する大きな出来事が三つありまして、三つとも奈良時代の出来事であります。

まず、712年(和銅5年)の古事記の撰録であります。これは、元明天皇が太安万侶に命じて稗田阿禮の口承を撰録したものです。    

古事記の本文というのは、いわゆる「変体漢文」で書かれています。これは、分かりやすいところは、原則漢文で書き、そうでないところは、漢字ではありますが、漢字の借音、借訓をして、のちに万葉仮名と言われるものと同じ形で書いています。特に歌謡については、いわゆる万葉仮名で書いているわけであります。

つぎは、日本書紀の編纂ですが、これは、720年(養老4年)であります。日本書紀は、どうやって、できたかと言いますと、後年作られた、新日本紀の中で、一品舍人親王(いっぽん・とねりしんのう)という人が、天皇の命を受けて日本書紀の編纂に当たったと書かれています。これは、天皇が係わった、いわゆる正史であります。歌謡の部分を除き、正式な漢文で書かれています。歌謡は万葉仮名で書かれています。そして、その次の出来事が万葉集の編纂でして、万葉集の編纂されたのが759年(天平宝字3年)であります。

それでは、まず、記紀の中にでてくる和歌について、見てみたいと思います。古事記と日本書紀の歌謡の数を見ますと、古事記の歌謡は112首、日本書紀の歌謡は128首、合計240首でありますが、この中には、ほぼ同一の歌が記紀の双方に出てきておりまして、それが約40~50首ありますので、それを差し引いて、約200首弱くらいが、記紀歌謡の実際の数であると言われています。

それでは、古事記につきまして、概要を少し、お話しますと、ご存知のように、現存する日本最古の歴史書でありますが、太安万侶が稗田阿礼の口承を書き取った内容は、はじめに天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が語られていまして、そのあと、天孫降臨を経てイワレヒコ(神武天皇)の誕生までを記しているという、いわゆる「日本神話」が記されているわけであります。その中に歌謡と言われる、歌も、今のお話の、100余首入っているわけであります。例えば、神武天皇の歌とか、日本武尊(やまとたける)の歌というのもあります。しかし、それらは、神話伝説の世界ですので、どこまでが、その実際の作者が作ったのか、同時に作られた年代が本当は、何時なのかという、判別はできない状況であります。しかし、大方の見解は、記紀が完成した710年~720年の直前約二世紀、といいますと、7~8世紀のものは、本当にその時代のものである可能性が強いが、それ以前のものは、そうではないだろうということであります。しかし、いずれにしても古事記と、日本書紀が、日本の一番古い歌の形を示すものであることは、間違いないということは言えるようであります。

それでは、古事記及び日本書紀の第一首目の歌でありますが。「八雲立つ 出雲八重垣妻篭みに 八重垣作るその八重垣を」であります。これは、スサノオノミコトの歌であります。スサノオノミコトは神々の審判を受けて高天原(たかまがはら)を追放され、出雲国に下るわけです。それまでは乱暴者、だけだったスサノオノミコトが変化をして、英雄となり、有名なヤマタノオロチ退治をして、そのあとでクチナダヒメこれは、「古事記」では櫛名田比売、「日本書紀」では奇稲田姫と表記をします。これを娶り、一緒に暮らす、その喜びの歌がこれであります。この歌の内容は「なんと出雲のすばらしいことよ、我が妻を篭もらせる為の新居のまわりを、七重、八重に雲が湧き上がっている。まるで我らの為に八重の雲の垣根が出来ているようだ。」というわけです。そして、この「八雲立つ」というのが枕詞であります。これは「平和に治まって繁栄することの象徴的表現」としての出雲の枕詞だといわれています。

ここにお配りしたのは、「八雲立つ」の原文であります。

古事記  久毛都 毛夜幣賀 都麻碁微 幣賀岐都久流 曾能幣賀

日本書紀 句茂菟 毛夜覇餓 菟磨語昧 覇餓枳菟倶盧 贈廼覇餓

これはいわゆる万葉仮名ですが、古事記と日本書紀の同じ文字を太字にしてみました。同じ文字の方が少ないという状況であります。しかし、古事記の文字の方がのちの万葉仮名に近いということをご覧いただけると思います。

記紀歌謡の枕詞
それでは、記紀歌謡に出てくる枕詞の例をあげてみたいと思います。

・地名に掛るものとしましては、 
いま触れた、八雲立つ→出雲、みつみつし(御陵威し)→久米、神風の(かむかぜの)→伊勢、青土よし→奈良、秋津島→大和、つぎねふや(次嶺経や)→山城、ちはやぶる(ち(霊)はや(激烈)ぶる(振る))→宇治、などがあります。

 また、神の名に掛るものとしましては、
高光る→日の御子、やすみしし(八隅を治める。天(あめ)の下をしろしめす。という意味)→大君、などがあります。

その他も当然あるわけでして、
いすくはし→鯨、これは一説に「いす」は魚のことで、「魚の中でも素晴らしいもの」の意かと言われています。あまづたふ(天伝ふ)→ 日、これは、天を渡ってゆくもの、すなわち太陽のことです。

この記紀歌謡に出てきます枕詞の事例を見ますと、地名、神の名、あるいは敬うべきもの等にかかる枕詞が主体でありまして、こういう種類の枕詞が、最も初めに作られた枕詞だということになります。

ある学者の説によりますと、地名というのは、自分たちの先祖の神が降り立った所で、神がその土地に名前を付けられた、ということで、土地の名というものは、「神聖」なものであると考えられていた。というわけです。そのため、歌の中で地名を歌うときには、いきなり地名を言うのではなく、まず「枕詞」をつけることによって、「神聖」であることを緩和したのではないか、というように言っています。神聖を緩和する、という言い方も難しい言い方ですけれども、恐れかしこむ気持ちを表したというわけです。勿論、二番目の種類の「神の名にかかる枕詞は」、余計にそうですし、「その他」のところにある枕詞も、それらの対象に対して、尊敬の念を持っていた、ということで、この説明は、正しいのではないかと思われます。勿論、「記紀歌謡」の中には、そのほかにも一般的な「足曳きの」というような枕詞も若干ではありますが出てまいります。

記紀歌謡の枕詞の音数
さて、記紀歌謡の枕詞の音数についてでありますが、枕詞本来の五音でないものがいくつかありますので、あげてみました。

三音の例として、「ちばの(千葉の)」は、葛野(かづの)にかかる。四音の例としては「うまざけ(旨酒)」は、三室(みむろ)、三輪、鈴鹿等にかかる。六音の例としては、「はねずいろの(唐棣色の)」は、うつろひ易し、にかかる。はねず色というのは、はねずの花の色、白みを帯びた紅色ということです。

なぜ、記紀歌謡の中には、五音でない枕詞があるかといいますと、記紀歌謡そのものが、まだ、五,七の音で歌を作ることが、定着していないからであります。本当は、その事例を載せてなくてはいけないところですが、これがやがて万葉集の中で、五音と七音から作られる、「和歌」のかたちに、確立されてきたということになります。たとえば、四音の枕詞の「うまざけ」という枕詞も万葉集では、「うまざけの」という五音の枕詞になってまいります。しかし、逆に、六音の「はねず色の」は、六音のまま続いて、万葉集にも残って、二首に使われています。
  
万葉集の枕詞
さて、次には万葉集の和歌について、お話ししながら、枕詞のことを話したいと思います。

 万葉集は、全20巻、約4,500首 であります。人によって、数え方が違いますので、約4,500首といたしました。一般的には、4,516首と言われています。この中には、長歌約260、反歌も短歌として数えて約4,200、旋頭歌が60、仏足石歌が一という内訳になります。

 それでは第一巻の二番目にあります万葉集の最初の歌というのを見てみます。舒明天皇の歌であります。
 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 國見をすれば 国原は 煙立ち立ち 海原は 鴎立ち立つ うまし國ぞ 蜻蛉島 大和の國は という歌です。

これは中学校の国語の教科書にも載っている有名な歌であります。これは、長歌ですが、最後の「あきづしま」(蜻蛉島/秋津島)というのが枕詞でして、大和に掛るわけです。この枕詞は、トンボ島と書いたり、秋の津の島と書いたりします。秋津島は大和地方の一地名であったのが、天皇の宮殿が置かれた場所であったので大和全体に掛る枕詞となったものであります。「しきしまの」(大和)と同様の考え方です。この「あきづしま」という枕詞は、万葉集の中には、全部で5回出てきます。「しきしまの」は、全部で6回出てきます。両方とも中くらいの頻度の枕詞であると言えると思います。

この舒明天皇(即位629年)の歌が万葉集の最初の歌だと申しましたが、実は、舒明天皇の前に、仁徳天皇の皇后で、磐之媛命(いわのひめのみこと、五世紀前半)という名前と歌があります。しかし、その歌が、本当にその人が作ったものか分からない、という状態でありますので、通常は、万葉集の期間には、参入しないのですが、もし、それまでを入れると、万葉集の詠われた期間というのは、350年間にもなるということになります。しかし、通常のオーソドックスな考え方は舒明天皇から、大伴家持(759年(天平宝字3年))まで130年というのが、万葉集の詠まれた期間だと言われています。
いまお話しましたように、万葉集の最初の歌に、枕詞が使われていたわけですが、これとは、関係がありませんが、ついでに、万葉集最後の歌(二○巻4516)というのを御紹介しておきます。これも教科書に載っている歌ですが、

新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)

この最後の歌を家持が作ったことと、万葉集の中に、家持の長歌・反歌など合計473首が収められていることから、「万葉集」は家持が主になって編纂をしたというように考えられています。その最後の歌が759年に作られたことが、はっきりしているわけであります。

ただ、その後、家持が幾つかの事件に連座して、公職追放を受けました。服役はしなかったようでありますが、785年に死去をして、その死後になって、恩赦が行われたということになり、その恩赦というのが、806年(延暦25年)であったことから、その時点でようやく万葉集が公に公表されたということになっているようであります。

それでは、万葉集の枕詞には、どんなものが多いかということを見てまいります。三重大学のリポジトリから引用をさせていただきます。用例数で十傑までを見ると、

①あしひきの108 ②ぬばたまの80  ③しろたへの 61  ④ ひさかたの50 ⑤ くさまくら49   ⑥たまほこの(里・道) 37  ⑦あらたまの( 年、月、日)34 ⑧しきたへの(家・寝る・着る) 34 ⑨あをによし 27 ⑩まそかがみ(映る・面影・清い) 27    
となり、合計枕詞数399、使用例 1,729例になります。

以上のように全4,516首のうち1,729首に枕詞が使われているということで、実に四割近くの歌に枕詞が使われているという大変な状況であります。

こんなわけで、万葉集で、枕詞の使用はピークを迎えまして、それ以降、枕詞の使用がぐっと減ってきます。枕詞に代わって台頭してくるのが、歌の技法を凝らす、掛け詞などであります。きょうは、掛け詞の話はしませんが、歌が様変わりをしてきたということであります。

さて、万葉集のあと、古今和歌集が醍醐天皇の勅命により紀貫之らによって勅選和歌集として編纂されますが、それが905年(延喜5年)であります。それ以降、951年に後選和歌集、1000年に拾遺和歌集が編纂され、それまでが三代集と言われます。それに1086年の後拾遺和歌集、1124年の金葉和歌集、1151年の詞花(しか)和歌集、1187年の千載和歌集、1205年の新古今和歌集の五歌集が加わって八代集、さらに、それに鎌倉時代から、室町初期にまでかけて13の勅選和歌集が加わって、全部で二一代集と呼ばれる勅選和歌集が編纂されています。

そのような中で枕詞を使った歌が段々詠われなくなってまいりました。そして、そのまま、近世、近代まで同じような状況が続くことになってまいります。

そこで、古今和歌集以降、枕詞の使用が少なくなった理由というのを考えてみたいと思います。色々な方々が色々なことを言っているわけでありますが、古今和歌集以降、枕詞の使用が少なくなった理由として、二つのことを上げてみたいと思います。

先ず、第一の理由として、枕詞の意味が分からなくなってきたのではないか、というのです。たしかに、万葉集の中でさえ、混乱をしています。

例えば、資料の「あしひきの」を見ていただきたいと思います。
「あしひきの」の音読み万葉仮名を見ると、安之比奇(26首)、安思比奇(3)、安志比奇(2)、安之比紀(2)、阿之比奇(2)、安思必寄(1)、安志比紀(1)、となっています。

 一方、訓読み万葉仮名を見てみますと、足日木(26首)、足引(20首)、足桧木(9首)、足桧(5首)、足曳(5首)、足氷木(2)、蘆桧木(2)、足疾(1)、足病(1)、足比奇(1)、悪氷木(1)、葦引(1)と言った具合です。

「あしひきの」は、万葉集の中に、百首以上に詠まれているわけでありますが、まず、音読みを見ていると、これは、発音ですから、皆なんとなく似ていると思いますが、訓読みは、それぞれの歌詠みが、自分自身で「あしびきの」という意味は、こういうことだろうと、解釈して使っているわけです。この内容を見てみますと、足というのは、大体共通理解をしていますが、足の他に山に生えている木のことかな、というイメージがあります。二番目には、足をひきずっている、というイメージがあります。三番目には、それは、病気だという感じです。最後には、この枕詞は悪いものだということまで言っているわけであります。ネガティブなイメージまで言っているという状況だと思います。

これらを見ると、当時の人たちでさえも、山の枕詞として、「あしひきの」は、皆が使うから、自分も使っている、ということで、本当のところ、意味が分からなくて使っているということだと思います。これらのことが、枕詞の使用を少なくした理由の一つであると考えられています。

二番目に枕詞の使用が少なくなった理由として、音の和歌から文字の和歌への移行(耳の和歌から目の和歌への移行)という、ことがあげられると思います。

万葉集は、凡そ奈良時代に完成していますが、その表記の方法としては、中国の漢字の借音、借訓という方法を使って、万葉仮名を作り、その万葉仮名で歌を書いたわけですあります。古今集になると、万葉仮名の中の借音の中の一文字が、楷書から行書、草書となって平仮名になってくるわけであります。

古今和歌集以降の枕詞の衰退
古今和歌集には、序が二つありまして、真名序と仮名序でありますが、和歌本体の方は平仮名で書かれているわけであります。この平仮名による和歌の文字表記というのが、和歌の世界に一大転換をもたらしたわけでありまして、だれでも、平仮名を習いさえすれば、和歌が書けるという時代になったわけであります。

いままでの、「口承による伝達、記憶」という時代は、ある言葉を強調するために、その上に枕言葉を付ける、という必要もありましたし、枕詞を頭に付けることによって、文字はなくても、その歌の内容を覚えやすくするということが、あったと思います。

しかし、誰でも、ひらがなを使って、和歌を記録できるということになってくると、枕詞で強調して覚えやすくする必要がなくなってきますし、加えて、和歌を使って、色々な意志の伝達ができるという、一種の意志伝達の道具としても和歌が使えるというようになってきました。その結果、和歌が掛詞を使ったりした華麗で複雑なものになって行ったものと思われます。それによって、枕詞は自然に使われなくなってきたと言うことができるのではないかと思います。

以上二つが、枕詞の使われなくなった、理由ということで、考えてみた訳でありますが、このように、古今集、新古今集のあと、枕詞を使わない華麗な歌を詠むという習慣といいますか、歌風というのが、定着をしてきまして、それは大きな変化することがなく、近世、近代と続いて来るわけであります。

 江戸中期の万葉集の再評価と枕詞
 この流れは、江戸時代の中期になって、いわゆる国学者たちによって、万葉集の再評価が行われ、再びもとへ戻ることになったわけであります。

 そこで、国学というのは、どういうものか、ということですが、それは、「古事記」「日本書紀」「万葉集」などの日本古代の文献を研究する学問であります。そうして、仏教や儒教などが伝来する前の、外国文化の影響を受けていない、日本民族固有の精神を明らかにしていくという学問であります。これは、契沖に始まって、荷田春満(かだの・あずままろ)・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤へ続いて行った学問であります。

特に、和歌につきましては、江戸時代も、古今和歌集以降の、女性的で温厚、優雅な「たおやめぶり」と言われる歌風が支配的でありましたが、それに対して、賀茂真淵が「万葉集」研究を中心にして、その「たおやめぶり」に対して、万葉集の中でうたわれる素朴で男性的な心情を「ますらおぶり」という名前を付けまして、大きく評価をし直したわけであります。また、賀茂真淵は、記紀、万葉の中から326個の枕詞を拾い出し、解説を付けた「冠辞考」という書物を作りました。

 子規による短歌革新と枕詞
その国学者たちによる万葉集再評価の流れを受けながら、明治時代になって改めて、万葉集を再評価したのが、正岡子規というわけであります。

明治31年に、正岡子規が、新聞の「日本(にっぽん)」に発表した「歌よみに与ふる書」というのがあります。その中で、子規は、こう書いています。読んでみますと、「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集にこれありそうろう。」「強いて古今集をほめて言はば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したるところは取りえにて、いかなる者にても始めての者は珍らしく覚え申しそうろう。ただこれを真似るをのみ芸とする後世の奴こそ、気の知れぬ奴にはそうろうなれ。」

こんな、過激な文章を新聞に連載を続けたわけです。これに対して、新聞社の中でも世間も、猛反発をしたのですが、子規は、旧派和歌をただ批判しただけではなくて、こういう短歌が新しい短歌だといって、新聞「日本」に自分の歌を、連載したんですね。初めに子規が、自分で百首の歌を作り、それを歌人、俳人、言論人ら11人の選者に一首ずつ選んでもらうという方法(百中十首)を、11回にわたって新聞「日本」の紙上に発表したわけです。それによって、世の人は、新しい歌っていうものは、こういうものか、なるほどと、子規を認めることになったわけですね。若い人たちは子規の熱い短歌革新への情熱に引きつけられて子規のもとに集まってまいりました。子規が根岸に住んでいましたので、そこに「根岸短歌会」が自然に生まれわけです。

子規は短歌革新の中で、学ぶべきものとして挙げたのは「万葉集」、「源実朝」、「蕪村の俳句」、「唐詩(漢詩)」などでしたが、特に、実朝の歌集「金槐和歌集」の中から学ぶべき名歌として、「大海のいそもとどろによする波われてくだけてさけて散るかも」などの気宇壮大な歌に光を当てて、万葉調の復活をもたらした功績が大きいと言われています。この正岡子規のいわゆる短歌革新によって、それ以降、『古今和歌集』の評価は著しく下がってしまったわけであります。

当初、明治32年から根岸の子規庵に新進の歌人香取秀真(ほずま)、岡麓などが集まって幾度か短歌会が行われたわけですが、翌、33年には、その会に子規より年長の伊藤左千夫と長塚節が参加して、この短歌革新の流れが、左千夫、赤彦、茂吉、文明、というように、アララギの伝統の中に生きてきたということになります。

今日は、枕詞のお話ですが、こういうわけで、枕詞は、万葉集とともに生きてきたという感じでありますが、現在は、勿論、万葉時代ほどではありませんが、現代短歌の中にも、枕詞は確実に残ってきております。

いま、短歌の実作者の中には、枕詞を面白がって使う若者がいたり、なんとか枕詞を生かして、趣のある歌を作りたいと思っている年配の方がいたり、枕詞は、静かに再評価されている、といった状況だと思います。

 

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