諏訪の風景

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松本訓男歌集「シシフスの神話」

― 感性と理性のせめぎ合う世界 ― 

一般的に歌集の名称は、歌集中の大見出しか小見出しの中に同様の言葉か、それに近い言葉を発見できるものである。さらには、数多の作者は、あとがきなどの中でその歌集名を付けた由縁を縷々述べる。しかし、この歌集は、いずれでもなくそれらの形を超越している。
そうであれば、作者は、あのゼウスの怒りを買って、落石を繰り返す大石を際限なく山頂に運び上げなければならないという永遠の刑罰を科せられた「シシフス」の神話の内容そのものに重大な意味を込めて名付けているのであろうか。または、哲学的エッセイの中で「シシフスの神話」を書いたカミュのように、人間存在の不条理を不断に意識しながら、それを受容し、そこから自由となり開放されて行こうとするカミュにも似た思いが心の中にあったのであろうか。
実際、作者は、この世界の中と人間存在の中にあり、また自分自身の中にもある不条理を歌い出している。

娘を連れてナッシュ逃げゆく風の町パーカッションは道に転がり

〈未成年〉の歌人は杳く 他のたれも贖へぬ歌を遺し逝きけり

革命の流転のままに街暑く ゲバラ逝きたり 背を撃ち抜かれ

鬱に泣き暖炉の前に居眠れる中年といふ捻ぢれゐるもの

作者はいま現実にもどり、茶飯の出来事のなかに自らの生を確認していく。諦観のようにも見えるが、現実を受容し、何か安らぎと温かさが内に満ちているように見える。

供花もなく卒塔婆ひとつが遺りをり。メメント・モリの帰らざる秋

水無月の池に蓮の咲きそむる無心なる日よ癒えゆくごとく

海に生れ海に還らん夏の日の白きヨットは帆を張りて行く

松本氏の短歌を語る上で、必ず触れなければならないのが、作者自ら「さんぼりすむ」という象徴主義であろう。作者は、短歌を作る際、暗示や象徴や装飾を頻繁に用い、歌に神秘的また審美的な効果を作り出している。しかしこのことは両刃の剣的な要素も合わせ持ち、限られた読者の中での理解を要求される歌集という手法にあっては、消化不良となりかねない課題を残していると思われる。また、ネット検索に一件も載って来ないような言葉の使用については、脚注が必要と思われる。

バブルとは淡きシャボンの棕櫚の花 コム・デ・ギャルソン 梁塵の町

町角にマンゴー買ひて消えゆける小野小町の銀のつけ爪

悲しみはたとへばネロの哄笑アグリッピーナの産みし洟垂れ

夏至を過ぎカサンドラたちも去りたるが 宿痾は癒えず。国狭蠅なす


 (ナイル短歌工房・平成21年2月号)

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