諏訪の風景

諏訪の風景

短歌による発信

私は長野県の田舎暮らしをしているので生活の全てにおいて中央の情勢には、はなはだ疎い。まして短歌を始めて日が浅いので、この分野においてもしかり、短歌界の日本の現状などは知る由もない。
しかし、折角短歌を始めたのだから、短歌の時の流れは分らずとも、古典や歌人と言われるの方々の歌集や歌書を読み、味わい、少しは研究らしきことをしてみることには田舎暮らしのハンデもなかろうと、いまそれらの書を読み漁っているところである。
長野県人が田舎っぽいことは言を待たず、彼らは日ごろ「方言」丸出しで生きている。しかし、一端全国放送になるような事件などが発生すると、「近所のおばさん」がインタビューに答えて、いきなり淀みなく「標準語」で話し出す。変わり身というか、日ごろの勉強振りというか、こちらが驚いてしまう。
このことを文化とまでいうと飛躍があるが、この地域の周りを見ると、従業員二、三人の小工場もハイテク技術を持っているし、生涯学習活動は大変活発である。この長野県人の知識と文化の高さを支えている何物かがあるのだろうが、それが何かは私にもよく分らない。
ここで、長野県の文化の高さの象徴的な事柄を二つ上げてみたい。「サイトウ・キネン・オーケストラ」と「信濃毎日新聞」である。

唐突な組み合わせであるが、まず、「サイトウ・キネン・オーケストラ(フェスティバル)」は、毎年松本市で開催され、世界で活躍している演奏家が自分の所属を離れ一団員として参加する音楽祭である。指揮者の小澤征爾のカリスマ性も手伝って、特別編成のオーケストラによるコンサートやオペラなどの1ヶ月近い別世界が出現する。それがちっぽけな人口20万人の松本に全国から人を集め、その町へ同化していく。不思議な世界だ。信州、松本は小さいながら都会なのかもしれない。

もう一つの「信濃毎日新聞」は50万部近い発行紙数、長野県内では60%以上の購読率を誇り、県民の知識の醸成と文化の向上に資する不可欠の役割を担っている。同紙の内容を見ても、ローカルニュースを扱っていながら泥臭さがない。ちょっと褒め過ぎかもしれないが。
ここでようやく本題である。同紙に「信毎歌壇」がある。選者は三人おり、現在は太田絢子、道浦母都子、小池光の各氏が当たっておられる。太田氏は社会詠に理解を示し、道浦氏は人間性あふれる抒情に応じ、小池氏は発見と挑戦に理解を示す。選者のバランスがよく、絶妙である。
以前は私もよく投稿し、一回の掲載に三首も載ったことがあるほど頑張ったこともあったが、ここ二年ほどは遠ざかっている。昨夏、思いついて次の歌を投稿した。

・犯したる罪ゆゑわれらは自らを衛ることさへ捨てしにあらずや

この歌が理解されなければ、信濃毎日新聞の投稿は今後やめにしようと思っていた。しかし、小池氏が反応してくれた。一席に取り上げて選評し「作者の意見に対する賛成、反対はいろいろあろうが、つよく考えさせる。憲法九条を虚心に読めばあるいはこういうことになるのかもしれない。」とあった。これでよいと思った。
私はむかし、憲法、行政法を学んだ者として、また基督者としてどうしても気になっていた聖書の言葉がある。それは新約聖書ロマ書12章19節「主が言われる。復讐は私のすることである。私自身が報復する。」これを文語訳聖書で見ると、皆さんご存知の言葉となる。「主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これを報いん。」である。
敵に攻められたら、攻められるままにしておきなさい。抵抗してはなりません。相手に対しては、どんな形か分らないが、神自身である「我」が報復するというのである。交戦権まで放棄している憲法九条に、私はこの思想と共通するものを見いだしたことで、この歌を詠んだものである。

小池氏の言うように、賛成、反対はあろうが、私の信条を歌に詠めたことと、その意味が理解されたことを大変うれしく思っている。


(ナイル短歌工房・平成20年1月号)

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