諏訪の風景

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赤彦の万葉集批評 - その厳格性

標記について、山上憶良の次の歌によって、考察をしてみたい。

・世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
(世の中を憂しと耻(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば)

これは、万葉集五―893の反歌である。その前の892が有名な、貧窮問答の長歌である。紙面の関係で、長歌をここに掲げるわけにはいかないが、その内容に触れてみると、先ず前半で、ある貧者が自分の生活を憂え、自分より貧しい人々はどのように暮らすのかと問いかけている。後半は、前半の貧者よりさらに貧しい極貧の者がそれに答え、大勢の家族を抱えて、着る物も食べる物も無いのに里長が鞭を鳴らして寝床まで取り立てにくる。人の世はこんなものか、と憂いているという内容である。そして、その長歌の後に来るのがこの反歌である。反歌の意味はご覧のように、世の中を辛いとも恥ずかしいとも思って生きていても、鳥ではないのだから、ここから逃げ出すわけにはいかない、という意味である。
まず、赤彦はこの反歌について、「全体が概念的であり、「憂し」「耻し」など主観的の詞を用ひて感動が却つて生き生きとしない。」(万葉集の鑑賞及び其批評)と批評している。また、この歌は、「貧窮問答の歌が徳川時代の萬葉解説者等を通じて、其時代に丁度持囃されさうな歌柄である所から此長歌有名になり、従つて、この反歌も有名になつたのである。子規は有名な歌に碌なものはないと言つてゐるが、この歌も萬葉集中では決して優れたものではない。」(万葉集短歌輪講)と言っている。
この赤彦の批評は、「悲しいとか嬉しいとかいふ主観句が頻用されれば、されるほど身に沁みる程度が薄くなつて、しまひには軽薄感さへ伴ふに至るやうであります。」「物心相触れた状態の核心を歌ひ現すのが、最も的確に自己の主観を表現する道と思ふのでありまして、これを寫生道と称してゐるのであります。」(歌道小見)という考え方からすれば当然である。
一方、斎藤茂吉はこの歌を、「万葉集中特殊なもので、また憶良の作中のよいものである。」「この反歌は、長歌の方で、細かくいろいろと云ったから、概括的に締めくくったのだが、やはり貧乏人の言葉にして、その語気が出ているのでただの概念歌から脱却している。」(万葉秀歌)と肯定的、好意的に受け取っている。これは、赤彦とは全く正反対の見解である。茂吉は、同じ書の中で触れているが、この歌の土台として、論語と魏文帝の詩の中にその出典を見出したことが書かれている。茂吉は憶良が遣唐使にも随行して漢籍に親しんだ博識の人物であることに敬意を抱いていたと思われ、そのことが、この反歌に対する好意的評価の理由の一つになったと思われる。
 それでは、万葉学者はこの反歌をどのように見ているのか。下諏訪町出身の五味智英先生は、その「万葉集講義」の中で、反歌に書かれている詞書の「山上憶良頓首謹上(謹みてたてまつる)」という文に注目している。それは、憶良がこの歌を、ただ一人でつぶやいたというのではなく、自分より地位の高い、おそらく政治に携わっている人に見せるために作ったのではないかと考えている。虐げられていた下層の人々の実態を訴え、また、里長などの官吏に対する憤りと批判を上層部へ訴えたものだと考えているのである。今でいう、社会詠というわけである。五味先生は、この歌の根本にあるのは、憶良のヒューマニズムであり、このような歌を後世に残したのは、憶良の功績であると言っている。
 以上、同じ歌でも人によって鑑賞が異なるという実際を見てきたが、本題に戻ってみると、赤彦にとっては、憶良のような、ある種の異質な社会派歌人の歌は批評に値しないと見ている感じがしないでもない。「万葉集の鑑賞及び其批評」の「はしがき」には「本書は純粋に鑑賞的態度を以て万葉集の短歌を見ようとしたものである。」とあり、また、この書は、「「歌道小見」の主要部分を廓大したものである」とも言っている。このことは、「歌道小見」の精神に沿って万葉集の歌を批評していることを意味している。その「歌道小見」には赤彦の歌論が書かれているが、そこには、「歌を作す第一義」として、具体的には、「寫生」「主観的言語(の排除)」「歌の調子(の重視)」「単純化(への努力)」「表現の苦心」「概念的傾向(の排除)」など赤彦が考えた作歌の作法が様々書かれている。赤彦はそれらを厳格に適用して、万葉集の鑑賞と批評を行っているのである。そこにブレのない赤彦の厳格性を見て取ることができると思うのである。

(島木赤彦研究会会報第58号・平成24年11月18日)

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