諏訪の風景

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あぢさゐの歌 - 花の名の表記

 8年前から庭の花を主体としたブログを書き続けている。花の咲いている春、夏のうちはほとんど毎日書いているだろうか。もう止めようかと何度思ったか知れない。たとえ2、3行の文章でも、それに写真を添えて毎日アップロードするのは、かなり大変な仕事である。加えて秋になり庭の花が少なくなってくると、散歩途中の諏訪湖の景色を載せたり、何でもいいからそれなりの物をと考えるのだが、それも結構骨が折れる。

しかし、今まで通算で、17万人の方々が立ち寄ってくださったことを思えば、それを励みとして、何とかできるところまで頑張ってみようかと思っている。

 私の住んでいる長野県諏訪地方は、寒冷地中の寒冷地、冬の朝はマイナス10度を下回る日が何日もある。従って鉢物の花を持っていることは、大変である。今は、原則的に、寒冷地に強い宿根草を地植えにすることにしている。しかし、季節ごとに毎年、同じような花を、咲きました、散りました、とブログに書いて皆さんにご覧いただくわけだから、見る方にとっても、迷惑な話である。

いま庭に三種類のアジサイの花が咲いている。また先日は、諏訪湖を眼下に見下ろすアジサイ公園の見学に行ってきた。こんなことから、今回はアジサイの歌について書いてみようと思い立ったところである。

・「アジサイ」の木札のたちてあぢさゐのそこに末枯(すが)るる遠き日の駅  小池光
 
 この歌の「アジサイ」は駅に立てられていた実際の看板の文字である。一方作者のこの花の名の表記は「あぢさゐ」である。

 植物名を短歌上どのように表記するかは、色々な考え方があり、本年の「短歌研究」四月号でも議論がされている。その中で、篠弘氏が、カタカナ語の濫用はやめようという提案をしている。これに対し、多くの歌人は表現は自由ではないかと反論をしている。甲村秀雄主宰も「その一首としてそうあるように表記されるべきだ。」というように意見を述べておられる。その歌それぞれに、漢字、ひらがな、カタカナなど、相応しい植物名の表現があり、表記があるということであろう。

 我が家では、何年振りかで柏葉紫陽花(カシワバアジサイ)が咲いた。異常気象の逆効果だと思っている。しかし、このアジサイは丸くはなく、円錐形に立ち上がる白い花である。この花を紫色が連想される「紫陽花」という表記をするわけにはいかない。アジサイかあぢさゐであろう。実際アジサイには赤系、青系、紫系、白系と様々な色がある。

さて植物名をカタカナ表記するという方法は、戦後、日本動物、植物学会で出された統一見解であり、植物分類学上の表記は「片仮名」により「新仮名遣い」で表記したものを標準和名としている。この植物名をカタカナで表記する方法は戦前にはなかったものである。従ってこの方法に倣ってカタカナで書く場合には、音(おん)による新仮名遣いをしなければならないということになる。

旧仮名で短歌を詠んでいる歌人たちもこれに倣って、例えば、宮地伸一は「ヒヨドリジョウゴ」と書いている。ひらがなで書けば、「ひよどりじやうご」(鵯上戸)である。これをカタカナで「ヒヨドリジヤウゴ」と書くのは誤りである。また宮柊二には、「ホウレンソウ」という歌がある。ひらがなで書けば、「はうれんさう」(菠薐草)である。これをカタカナで「ハウレンサウ」と書くのは誤りである。

・言問はぬ木すら紫陽花諸弟らが練りの村戸にあざむかえけり
  事不問 木尚味狭藍 諸弟等之 練乃村戸二 所詐来  
(万葉集第四巻773 大伴家持)

・あぢさゐの八重咲くごとく弥つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ

安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都々思努波牟
(同第二○巻4448 橘諸兄)
 
万葉集には、アジサイの歌が僅か二首しかない。万葉集は、いわゆる万葉仮名が使われているが、訓読みの仮名と音読みの仮名が使われており、それは巻毎に異なっている。四巻は借訓で書かれており、「アジ」の字に「味」が使われている。二○巻は借音で書かれており、アジサイが一字一音の「安治佐為」と書かれている。訓読みの「味」の方は、文字通り「味わい」のあるという意味の説と、小さい花が「集まる」という意味である説とに分かれている。「狭藍」の方は、藍色を表すというのが通説である。ただ、今の我々にとって華やかに見えるアジサイの花の歌が、万葉集には二首しかないという理由を考えてみると、万葉集の時代のアジサイは今とは異なり、花の周りにパラパラと装飾花のある現在のガク(額)アジサイのような質素な花ではなかったか、余りきれいな花ではなかったのではないか、と考えられる。

・あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼 佐藤佐太郎

この歌は私の好きな歌である。「つゆけき」は露に濡れてしっとりと美しい様子である。そしてこの歌には、何か物語性を感じる。この艶やかなアジサイは昼も夜もその美しさを継続していくのであろうか。あるいは、この花に「移り気」という花言葉があるように何かの変節をしていくのかも知れない。人の世に喩えながら読むと興味は深い。

 また、この花の名の表記が紫陽花でなく、旧仮名で書かれているのが何とも美しい。加えて下句には「ぬばたまの」と「あかねさす」の枕詞が二つも使われており思いもよらない斬新なものとなっている。この枕詞の登場順は、「花ありぬ」と「ぬ」が出たので「ぬばたまの」と自然に続いたのであろう。

私は庭にヒオウギの花を育てている。友人からもらった苗が昨年、三年目にしてようやく開花した。その花が枯れた後、アヤメに似た花の先に真黒い「ぬば玉」の実を付ける。本当に黒い。今年はまだ開花しないが、昨年のぬば玉を乾燥花にして部屋の中に吊るし楽しんでいるところである。


(ナイル短歌工房誌・平成25年10月号)

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